昭和40年2月?日 朝の御理解




 そこんところを( )に考えたいですね、はあ本当に先生そうでございましょうねちいうてから、もう今日言われるわけです。ね、苦しい時にはばちかぶっとっとですよ、本当。ですからもうそこはもう詫びるほかはないです。罰かぶっとるてんなんてんていう言葉はお道にはね、あのあんまり申しません。それも、やはり神愛のあらわれ。だから罰という、罰ということもいうならばあれは神愛なのです、いうなら。ね、それをお道、あた、お道でいう、椛目流に言えばそれ神愛の表れであるということになる。ね。

 永瀬さんが、病気を入院される前に、あれはどれ位でしたかね、午前中ここで修行されたのは。ね、一年間でした。一年間修行されましたですね。私はあのここで修行せんならんじゃないですけれども、あのくらいの修行が私は必要じゃなかろうかと思う。ね。遍照金剛のおかげを頂くために。ね。本当にあのかっこたる、この力とか信念とかと、というようなものを頂く、本当に信心の教えを地でいくという生き方をしなければだめです。ね、神様は分かっておる、同業二人の信心も分かってきた、ね。神様の働きを受けなければ、いや神様と共になからなければ自分達は幸せにはなれないことも分かっておるんだけれどもです、ならその神様を表しきっていないと。ただ同業二人の、こうしたあのおりずるというですか、あれを羽織っておるだけのこと。いわゆる金剛不壊の杖をついていない。金剛遍照の杖をついていない。神を杖についていない。神を杖につけば楽とおっしゃるのに、楽ではない。苦しい、術ない。

 ね、本当に自分の商売の上に、例えば繁雄さんでいうならその(ごぼうふみ?)の上にです、福島さんでいうならお商売の上にです、篠原さんでいうならお勤めの上にです、ね、私は本当に信心の教えを地で行くところの信心がです、なされなければ、私は力を現すことはできないと思う。分かっただけでは。ね、本当に信心の教えを地で行くという修行なんです。私は永瀬さんの一年間のここでの修行というのはです、そのことを、いわば洗練されたとこう思うのです。ね、それはならここにこなければならんということではない、ここにおったって同じことなんです。家族のもんなんかそうでしょうが。朝からここにおったからというてならその修行ができるということじゃないけれども、あれもこれもかなぐり捨ててです、教えに生き抜こうとするところの、やはり私は一年間がです、非常に、永瀬さんの信心の基礎になったと私はおもうんです。ね、ですからお互いの職場においてです、お仕事の中にです、本気で信心を元にして、教えを元にしてですね、損とか得とかいわずにです、きついとかきつくないとか言わずにです、それがありがたくできれるところまで、私はおかげを頂かなきゃいけない。

 これは私がお商売を福岡でさせて頂いておる時分のしばらくの心境でしたけれど、当時、お店の方が四人おりました。ね、私が朝のご祈念にお参りして帰ってまいりますと、四人の人の自転車がきれいに雨の日でも洗ってからきれいに磨き上げました。もうそれがもう有り難うしてこたえじゃった。ほ、ほんなこと。あの時分は、芋ご飯ばっかり炊きよりましたけれども、もう芋だけばよって頂くことがありがたかった。ほんなこついうならです、いわば私が大将だから、私が一番よかとこ食べてもよか。ほんなこつなら私が自転車を、掃除させてもよい。けれどもそれをさせて頂くということがありがというしてこたえじゃったです私は。ね、お芋んとこだけ頂くことがです、ありがとうしてこたえじゃった。頂きながら涙がぼろぼろこぼれた。もうその冷たい時なんかはです、もうその、つめ、ほんっとにそのさっきのごぼうの話じゃないけれども、冷たいなんかは全然有り難くて感じなかったです。どんなに自転車は、朝、そのお仕事に出る前に、洗わして頂くのが。もうそれは、もうその中の具体的なことを言うならもう、とにかくもうまた、今日一日がですね、この自転車にのってからまたその、使わせて頂くということ。ね、一日使うて帰ってきたらです、汚れておったそそれを洗わして頂くことがです、もう本当に、物言わん自転車にありがとうございます、ありがとうございますと、お礼を言いながらのことですからもう、辛いも冷たいも寒いもなかったです。いわゆる、教えを本当に忠実にです、実意丁寧に、行じぬかせて頂く時にです、その、冷たいはずのその、こぼうすぶきがです、私は有り難いものになってくるようなおかげに、おかげにそういう日々をです、私は本気でつづけさせていただかなければです、遍照金剛にはなってこないと思う。

 ね、お互いが神様を頂かなければ、立ち行かんということは分かった。もうこれは恐らく離れないだろう。これだけのことが信心が分かったら、けれどもその、その分かった神様をです、ね、現していくということ。いわば私は神を杖につかなければ、楽ではないと。本気で神様をです、み教えをです、ね、行じぬかせて頂く、本気でぬかせて頂く信心がです、私は欠けておるのじゃはなかろうかとこう、今日は思うた。ね、神様がと共にあるとか、同業二人とか、信心なしにはいきてはゆかれないということが分っただけでもこれは有り難いこと。けどその有り難い神様をです、いよいよ、ね、現していくということ。ね、その現していくということは、神を杖につかなければ、現してはいけないと思う。神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。神を杖についての、例えばならごぼうしごきであったらです、ね、先生がしたこつがあんなさらんけんで、そげんいいなさるばってん、例えばごぼうすごきちいうものはそげん、楽なもんじゃありませんと言われるかもしれません。はい、けれどもです、教えをもう本当に忠実にですたい、ね、本とにそれを私ともの場合それをしようとも思わなかったですたい、その時分の気持ちを表現なかなかできません。けれどもそれは確かにそうでした。もう馬鹿らしいとも思いませんでした。夜中頂くことがありがたかったし、ね、夜に自転車を洗ったり磨いたりすることが有り難かったということは事実なんです。ね、そこにはもう、いわば神を杖についておる楽な、場というものを神様は与えられておったというふうに感じるのです。そこが、今の壮年部の方たちには欠けておるんじゃないだろうかとこう思うんです。それが、その修行が。神を杖についていない。その証拠の楽ではない。神を杖につけば楽とおっしゃる。

 ね、その、たとえば差益とうもします、ね、借金、それこそ血も涙もないような攻め立てられかたがです、辛いです。けれども、ね、辛いけれども心の底にはです、ニヤーっと笑う。神様があの手この手をもってから、修行をさせてくださるなあとこう思う。ははあ、今、前の罪の償いができておるなあと思うたら、お礼申し上げにゃおられんのであり、有り難いのであり、心の底にはいわば、にお、にやっとするものがです、ね、ニヤニヤ笑とったらそのせっかく、一生懸命なってから、腹かいてござるその借金取りに対して気の毒いから、ほんと困った顔はしとっても、心の底ではニヤっと笑えるようなものがです、有り難いなあとその、ごぼうの、ごぼうふりを、ごぼうしごきをさせて頂きながらです、ありがたいなあというようなものをですね、感じれれるところまでの信心がです、できてないなら神を杖についていないからだと私は思うです。頂けるです、それが。ね、それが頂けるのが信心です。それがです、ね、私は金剛不壊の力になると思うです。それが、ね、天地に遍くようなです、働きになってくるというふうに感じますですね、おかげ頂きました。




池尻てるか